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2016年1月/大賀・林


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至福の時 

大賀  隆
(日本スケッチ画会理事・事務局長)
    
 ここ何年来、恩師の海外スケッチ旅行について行き楽しい思いをしている。昨年は北イタリアのベニスからベローナ、コモ湖と回ってスケッチ三昧を楽しんだ。ベニスでは街中のベストポジションに宿があり早朝から夕刻まで疲れるほど描きまくった。帰国して、初参加の仲間に言わせるとまるで体育会の合宿みたいだったそうである。でも疲れるけれど楽しい。スケッチは描いているときが何とも至福の時である。

 私はもともとアウトドア派であるがリタイア後の趣味として始めたスケッチ画はその他の多くの趣味を随分犠牲にして嵌っているところだ。好きな屋外でのスケッチは陽の光を燦々と浴びて爽やかな風を肌に感じてすがすがしい。水辺にあっては波打つ水音に心をときめかす。もう若くはないが気持ちは今でもヤングマンであり続けている。旅先ではF4サイズのコンパクトなスケッチブックに心に感ずるモチーフを切り取るとき早く描きたいと思う衝動これがとても感動する。私は少し荒っぽいがペンを使った早描きに簡単に色付けをする淡彩画を好んでいる。こてこて塗ると失敗が多いことを知っているからだ。

 私がいまのスケッチ画を描くようになったのは10年少し前にさかのぼる。勤めていた会社で定年を延長勤務まで終えて孫の散歩に喜びを覚えていた頃、公園で楽しそうにスケッチ絵を描いている人達に魅せられて誘われるままに仲間入りしたことに始まった。それからしばらくして誘われて初期のペン彩画会展を見学に行き、そこで職場つながりの仲津さんにお会いしてこれがペン彩画だと教わった。さらにスケッチ画の基礎を多く教わった。やがて水陽会の五十嵐先生を紹介してもらい師事することになった。そして一番にやったことが有楽町のある場所で仲津さんとの「水彩スケッチ二人展」だ。事情は単純で現役時代の職場仲間に勝手に仕組まれてやむなく開催する羽目になった。恥ずかしながら二人で50点ほど飾って披露した。仲津さんはまだしも私は赤面の至りだった。だが、大勢の皆さんに見ていただき驚きの感激であった。

 そしてその後、恩師のおかげで日本スケッチ画会、ペン彩画会の皆さんのお仲間になり今では楽しい後半の人生を謳歌している。私は恩返しと思いこの素晴らしいスケッチ画の普及に精を出し仲間づくりに生涯を尽くすつもりである。一人でも楽しめる。仲間と一緒に描いて楽しめる。多くの人に観てもらって楽しむ。全く、いい場を与えてもらったものだと感謝している。ぜひ一人でも多くの方々にこの楽しみを享受していただきたいと思っている。画会のお仲間には93才の大先輩もいらっしゃる。私の「道しるべ」と言えるお方である。

 今年は正月から好天続きでスケッチ日和を満喫している。難しい話は抜きにして幸せを感じている。5月に予定しているクロアチアが今から楽しみである。

 

 この際だ、過去の海外スケッチで私が感動したところを2,3紹介してみたい。私はどちらかというと歴史的な建造物を少し入れて感動を伝えたい思考で説明絵を好んで描いている。
 

(左)南西フランスのアルビで滞在しコンクほか近郊の小さな美しい村々と城塞都市カルカソンヌで描いた 「古代ローマ時代のカルカソンヌ城」が最高だった。

(右)イギリス・コッツウオルズと古代温泉都市バース、女王のウインザー城とロンドン橋ウエストミンスター宮殿 中でも「ウインザー城のロングウオーク」は美しかった。

(左)オーストリアではウイーン、ザルツブルグ、インスブルグと回った。サウンドオブミュージックが聞こえる「雨上りのザルツブルグ城」は素晴らしい。

(右)そして昨年のベニスではグランドカナルで描いた「サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂」は印象的だった。

絵を描く楽しみ

林 義弘
(日本スケッチ画会理事)
 
 いったい絵を描くということを始めたのはいつの頃だったろうか。おぼろげな記憶をたどってみると、そうだ、あれは小学校の4年生くらいのことではなかったかしらん。昭和26年だったか、10歳年上の兄が、どういう訳でそういうことになったのか、芝の増上寺に連れていってくれた。終戦後間もないころのことで境内のあちらこちらに、まだ片づけられていない瓦礫があったような気がする。そこで水彩絵の具を初めて使って風景を描いた様な記憶がある。兄は文学部の学生で、絵も好きな人だった。子供の頃からいたずら描きが好きで、白墨やローセキを手に入れては、道ばたに落書きをしていた私を見て、少し教育をしてやろうと思ったのかもしれない。

 その頃は、絵といえば興味は漫画ばかりで、特に手塚治虫に夢中、小学校の真ん前にある貸本屋に日参する毎日。ヒゲオヤジや色々なキャラクターを書き写して楽しんでいた。

 小学校も上級生になると、図画工作の時間に、外へでてスケッチをする時間があった。近くの公園(新宿御苑だったかも知れない)で、スケッチをしている場面が記憶にある。池を取り囲む岸辺に大きな岩があって、その色がどうもうまくでない。岩にばかり注意がいって、全体をまとめることをすっかり忘れている。先生がやってきて「もっと全体を見て描きなさいね」と注意されたなあ。

 中学に進むと図画工作の先生も専門の学校を出た方が教えておられた。ある時、隣の席の人を描きなさいという課題がだされ、私としてはうまくかけたと得意になっていたところ、先生から「上手だが、面白味が足りない」とのきつい評価であった。このことはかなりこたえて今も絵を描くたびにちらりと脳裏をかすめる。

 その後私の関心はすこし絵から離れ、友人の影響もあって、アマチュア無線用のラジオ制作にのめりこみ、世界の電波を追いかけて寝不足の毎日。大学は通信系の学科を選択、会社も家電製造会社に就職して、すっかり「お絵かき」とは縁が切れた状態が長年続いた。

 大阪、東京と事業場をうつり、宇都宮の工場に転勤した時、ある日デザイン部門の同僚がスケッチにいくのでちょっと画材を買いに行くという。おつきあいでそれについて行ったら、なんだかすてきな固形の水彩絵の具がある。これは透明水彩というものだ、とその人が教えてくれた。透明粋水彩というものは、どういうものかも知らず、なんだかとてもいい色がでそうな気がして、衝動買い。それでそのスケッチについていったのが、どうもその後の私の人生の楽しみを決めた様な気がする。

 定年退職の1年前に、少し記念のイベントをやって会社生活を卒業しようと思い立ち、無謀にも水彩スケッチ個展をやることにした。会社の友人が絵をやっており、その人の協力で京橋「ギャラリーくぼた」のとなりにあったギャラリーの小さな1室を予約した。それから急いで作品を描き、何とか間に合わせるという泥縄ぶり。その時ギャラリーに偶然立ち寄られた方とのハプニングが現在に至る絵との関わりを決めたと今にして思う。その頃だったか、日本スケッチ画会からお声をかけていただき、末席に連ねさせていただいたのも、絵との関係を続ける大きな力になった。

 余談だが、第1回の個展の時、近くで山本元顧問がスケッチ画展をやっておられた。見に行ってすっかり魅了され、こんな風に書けるようになろうと思ったのを思い出す。

 絵はやはりデッサンがしっかりしていなくてはと、友人の紹介で鎌倉の「日の会」に入り、ほとんど毎週、人体デッサンの勉強に通った。そのおかげで人物には多少の自信が生まれたし、描線のうつくしさというものにも目覚めた。

 それから15年、海外のスケッチも経験し、個展も9回まで開催でき、そんな風に楽しく絵を描く人生が送れたのも、ともに同じ趣味を語れる仲間の存在が大きかったとしみじみ思う。というわけで2017年予定の第10回個展を目指して、楽しく描き続けたいと思っています。

 添付の画像は、第1回個展の時に展示した「鎌倉・長谷寺のアジサイ」


2016/01/19