スケッチ随想

HOME» スケッチ随想 »2013年9月/勝田・野村

スケッチ随想

2013年9月/勝田・野村


スケッチ随想

絵は虫眼鏡(+)をクリックすると拡大して見られます。

スケッチ随想

勝田正佳
(日本スケッチ画会 監査役)

  スケッチをしていると光は移り風は巻く。画用紙の上を蟻やかなぶんが闊歩するし、蜂が筆洗の水を飲みにくる。足元ではとかげがごそごそ走り回りもする。なかなか忙しいものである。

  日本に西洋風の水彩画が紹介されたのは明治中期から大正にかけてのこと、日本の自然を題材として多くの水彩画家が輩出した。浅井  忠、三宅克己、丸山晩霞らがそれである。

  発祥はオランダといわれるが、イギリスにわたりコンスタブル、ターナーなどによって一つのジャンルに育てられたといえよう。コンスタブルの自然主義的風景は、詩人ワーズワースの神による被造物一切に歓喜する詩心と一致してのことといわれる。

  スケッチは絵だけでなく文章によるものもある。徳富蘆花の「自然と人生」(明治三十三年)の中にも「写生帖」として十数編の写生文が載っている。その本の中とびらにワーズワースの詩を書きつけているのも、自然に対する詩心に共鳴してのことであろう。島崎藤村の「千曲川スケッチ」(明治四十四年)の中で「私はよく小諸義塾の水彩画家丸山晩霞君と連れ立ち、学校の生徒と一緒に千曲川の上流から下流の方まで旅行に出かけた。このスケッチはいろいろの意味で思い出の多い小諸生活の形見である。」また「水彩画家三宅克己君が小諸に来て住んでおられ、・・・・わたしは同君に頼んで画家の用いるような三脚を手に入れ、時にはそれを野外に持ち出して、日に日に新しい自然から学ぶ心を養おうとしたこともある。」そして藤村は画家がスケッチするように「写生文」を書き、詩から散文へと自らの文学パターンを変えていったのである。

  三次元の対象を二次元に変換するスケッチ画の過程で、技術力、描写力、感覚、バランスが試され、加えて光と影、色彩をもって三次元的に、つまり奥行きと立体感を出して再表現する必要がある。文学同様に、水彩スケッチ画の奥行きも深い。

スケッチの楽しみを覚えた頃

野村 彰男
(日本スケッチ画会顧問)

 スケッチの楽しみを覚えたのは初めて新聞社のワシントン特派員になったときだった。それまで政治記者として永田町や霞が関を走り回り、必要に応じての読書以外は趣味と呼べるものはなかった。

 ところが、米国の首都で特派員生活を始めると、冷戦下の米国の内政外交、日米関係など取材対象は限りなく広がり仕事は忙しいのに、週末ともなるとホワイトハウスや国務、国防両省の役人、議会スタッフたちも休み、自分の時間、家族との時間がもてるようになった。取材相手と親しくなるための会食、家に招いてのパーティなどは重ねたが、東京にいたときのように、連日連夜、政治家の家を訪問して話を聞く「夜討ち朝駆け」からも解放された。

 そんなある日、親しい駐米公使の家に招かれたら、広い家のあちこちの壁に水彩画が何枚もかかっている。ワシントン周辺の見慣れた光景が素材だった。「いいですねえ」と感想をもらしたら、「これみんな私が描きました」との返事。忙しい公務の合間に見事な作品を生み出していることに感じ入った。子どものころ絵を描くのが好きだったことを思い出し、善は急げとナショナル・プレスビルの近くの画材屋に走って水彩画の画材を買いそろえ、家族連れで行楽したり米国内、海外を問わず仕事で出張したりするたびに、暇を見つけてスケッチするようになった。

 ただ、哀しいかな、先生にもつかず全くの自己流で始めたから、技法はもちろんのこと、当時のスケッチブックは紙がぺらぺらに波打ち、いま見ると無残だ。しかし、ヨーロッパに出張して取材した後に描いた夕日の残る町並みのスケッチ、時差もあって早朝目覚めてホテルの周辺へ飛び出して描いた教会や川。描き続けるうちに増えたスケッチブックが、絵日記よろしく、自分のその時その時の活動の記録になっていった。スケッチしたときの街のざわめき、小鳥の声や水音まで蘇る。その後、論説委員やアメリカ総局長となり、転じて国連広報センターの所長や国際交流基金日米センターの所長となっても、出張の度にカバンにスケッチブックを持ち歩く習慣は変わらない。

 日本スケッチ画会に入れていただき、五十嵐会長、久納理事長をはじめ素晴らしい感性や技術を持ち、生徒さんたちとともに研鑽を積む仲間の活動や見事な作品に接するにつけ、もっと描くことに集中し腕を上げる時間のゆとりを持ちたいと願うこと切だ。

 添付の作品は国連活動の一環でこの夏、企業の人々と北京に行き地球環境をめぐる日中韓会合を終えたあと、故宮と天壇公園を駆け足でめぐった折の絵である。


2013/09/02